長崎の生活
幼稚園に入園し、誕生日会をしてもらったり、髪を毎日違う髪型に結ってもらったり、幸子に迎えにきてもらった帰りに喫茶店でかき氷やナポリタンを食べたり、お父さんがいない日々でも幸子と私は2人楽しく過ごしていた。
幼稚園の前にあった喫茶店のナポリタンのお陰でピーマンが食べれるようになったのだが、そのことをお父さんに言えないのだけが少し寂しかった。
ただ夜は別の寂しさが襲ってくる。
幸子はスナックに勤め出した為、私は毎日夜間託児所に預けられていた。
幸子と同じスナックで働く人の娘のしょーこちゃんと仲良くなり楽しく遊んでいたが、私達には決定的な差があった。
しょーこちゃんのお母さんはいつも「ちゃんと」迎えにくるのだ。
私の一個下だけど背の高いしょーこちゃん、私より重たいはずなのに、しょーこちゃんのお母さんは私のお母さんよりとっても細くて小さいのに、毎日しょーこちゃんは寝たまま優しく抱っこされて気持ちよさそうに帰っていく。
幸子は毎日泥酔、二階にある託児所の急な階段から転げ落ちることも一度や二度じゃない。
とにかく大声でわめきちらし静かに迎えになんてこない。
そのため私は寝たまま抱っこしてもらって家に帰れるなんてことはなく、いくら眠くても2時でも3時でも叩き起こされ、きちんと歩くようきつく保母さんたちに言われていた。
今思えば千鳥足の幸子に抱き抱えられて帰っていたらあの階段で私の寿命は尽きていただろうし、保母さん達が鬼の形相で毎夜毎夜寝起きの悪い私を叩き起こすのは心配からのことだったのだろうが、それがとにかく怖くて辛くて毎日泣いていた。
そしてどんなに眠くてもすんなりは帰れない。
またそのまま店に戻ったり、違う店に行ったりで私はまだ字も読めなかったのだが、連日の飲み屋通いによりその当時のスナックで流れているカラオケのほとんどをそらで歌えるようになっていた。
面白がって演歌や下ネタのきついカラオケを歌わせてくる大人達と遊んでいると、大体決まって
ガッチャーーーーーン!!!!
ととんでもない音がする。
その時の音の正体は、泥酔した幸子がテーブルに突っ込んだか、幸子が客をボトルかバッグで殴りつけているか、怒った客が幸子を突き飛ばしているかのどれかなのだが、毎回決まってこのオチで撤収となるため、眠くてしょうがない私はガッチャーン待ちをしていた。
この頃から私は毎日は風呂に入れてもらえず、朝から髪をお湯で濡らしたタオルで拭いてもらってはひっつめてぎゅうぎゅうにスプレーで固めるポニーテールの日がしばしば出てきた。
そうすると頭皮の脂とスプレーで、まるでポマードでもつけたように表面がてっかてかに光るので「いつもキレイにセットしてもらってるわねぇ」と褒められていた程で、不潔だとは思われていなかったように感じる。
しかしいくら取り繕ったところで、その頃の私の歯は虫歯だらけ。
我が家のメニューはどん兵衛かUFOかオムライス(チキンライスではなく白ご飯に薄焼き卵をのせてケチャップをかけたもの)か菓子パンの四択だったのだが、それすらもうろくに噛めないほどになっていた。