Daughter of a bitch

バツ4の母に育てられセックス依存症になりました

よく家に来るパンチパーマ

どう見ても悪人面でお世辞にもかっこいいとは言えないが、笑った顔は優しげなゴリラのような面白いパンチパーマのおじさんが、しょっちゅう幸子と私を遊びに連れて行ってくれるようになった。

 


アルバムを見返すと年中の頃にはパンチパーマが写っていたので、子供の体感では長く感じたが、お父さんと別居して1年も経たずにできた彼氏だろう。

 


あちこち出かける時はそのパンチパーマの名字を名乗らされ、お父さんと呼ばなければいけないというルールがあったが、全く苦ではなくむしろパンチパーマといると幸子がとてもしおらしく優しいので、本当にお父さんになって欲しいと心から願っていた。

 


ある日幸子がスナックの仕事を終え、パンチパーマと2人で私を迎えに来た。

幸子は千鳥足でも喚くわけでもなく、とても優しげに静かに「ただいま」と微笑んでいて、パンチパーマは眠い目をこする私を抱き抱え車に乗せてすぐに家まで連れて帰ってくれた。

 


なんて幸せな気分だろう。

 


家についてパジャマに着替え、これから始まる3人での楽しくてステキな生活を夢見つつうとうとしてたら玄関のチャイムが鳴った。

 


幼稚園児でもわかる。今は真夜中、この時間のチャイムはただ事ではない。心臓がバクバクいった。

 

 

 

玄関には髪の短い痩せたおばさんとおばあちゃんが立っていた。ものすごい剣幕で幸子に怒鳴りつけている。

 

 

 

パンチパーマの奥さんとお母さんだ。

 

 

 

私のお父さんになる予定の人は、もう誰かのお父さんらしかった。

 


毎日ガッチャーーーーーンを聞いていた私でも大人達の怒鳴り声は怖く、箪笥の中に隠れるよう言われ、不安な中幸子のファーコートにくるまり泣いて夜を明かした。

 


起きたらパンチパーマはいなかった。

長崎の生活

幼稚園に入園し、誕生日会をしてもらったり、髪を毎日違う髪型に結ってもらったり、幸子に迎えにきてもらった帰りに喫茶店でかき氷やナポリタンを食べたり、お父さんがいない日々でも幸子と私は2人楽しく過ごしていた。

 


幼稚園の前にあった喫茶店ナポリタンのお陰でピーマンが食べれるようになったのだが、そのことをお父さんに言えないのだけが少し寂しかった。

 


ただ夜は別の寂しさが襲ってくる。

幸子はスナックに勤め出した為、私は毎日夜間託児所に預けられていた。

幸子と同じスナックで働く人の娘のしょーこちゃんと仲良くなり楽しく遊んでいたが、私達には決定的な差があった。

 


しょーこちゃんのお母さんはいつも「ちゃんと」迎えにくるのだ。

私の一個下だけど背の高いしょーこちゃん、私より重たいはずなのに、しょーこちゃんのお母さんは私のお母さんよりとっても細くて小さいのに、毎日しょーこちゃんは寝たまま優しく抱っこされて気持ちよさそうに帰っていく。

 


幸子は毎日泥酔、二階にある託児所の急な階段から転げ落ちることも一度や二度じゃない。

とにかく大声でわめきちらし静かに迎えになんてこない。

そのため私は寝たまま抱っこしてもらって家に帰れるなんてことはなく、いくら眠くても2時でも3時でも叩き起こされ、きちんと歩くようきつく保母さんたちに言われていた。

 


今思えば千鳥足の幸子に抱き抱えられて帰っていたらあの階段で私の寿命は尽きていただろうし、保母さん達が鬼の形相で毎夜毎夜寝起きの悪い私を叩き起こすのは心配からのことだったのだろうが、それがとにかく怖くて辛くて毎日泣いていた。

 


そしてどんなに眠くてもすんなりは帰れない。

またそのまま店に戻ったり、違う店に行ったりで私はまだ字も読めなかったのだが、連日の飲み屋通いによりその当時のスナックで流れているカラオケのほとんどをそらで歌えるようになっていた。

 


面白がって演歌や下ネタのきついカラオケを歌わせてくる大人達と遊んでいると、大体決まって

 

 

 

ガッチャーーーーーン!!!!

 

 

 

ととんでもない音がする。

 


その時の音の正体は、泥酔した幸子がテーブルに突っ込んだか、幸子が客をボトルかバッグで殴りつけているか、怒った客が幸子を突き飛ばしているかのどれかなのだが、毎回決まってこのオチで撤収となるため、眠くてしょうがない私はガッチャーン待ちをしていた。

 


この頃から私は毎日は風呂に入れてもらえず、朝から髪をお湯で濡らしたタオルで拭いてもらってはひっつめてぎゅうぎゅうにスプレーで固めるポニーテールの日がしばしば出てきた。

そうすると頭皮の脂とスプレーで、まるでポマードでもつけたように表面がてっかてかに光るので「いつもキレイにセットしてもらってるわねぇ」と褒められていた程で、不潔だとは思われていなかったように感じる。

 

 

しかしいくら取り繕ったところで、その頃の私の歯は虫歯だらけ。

我が家のメニューはどん兵衛かUFOかオムライス(チキンライスではなく白ご飯に薄焼き卵をのせてケチャップをかけたもの)か菓子パンの四択だったのだが、それすらもうろくに噛めないほどになっていた。

飛行機に乗り長崎へ

3歳になり、幸子の実家である長崎に行くため、飼っていた金魚をお気に入りの水筒に入れて飛行機に持ち込んだ。

 


機内ではストロー式の水筒からふーーーっボコボコボコと息を吹きこんでは金魚は息できるかな?苦しくないかな?とずっと心配していた。

 

 

 

遊園地のすぐそばにあるおじいちゃんおばあちゃんちで遊ぶんだと思っていたのに、ついたのは2Kのボロアパート。

3歳の私には広く感じたが、今思えば家具のサイズ感から推測するに四畳半が2部屋と3畳もないキッチンだったように思う。

 


青い服をきたお兄さん達が荷物をどんどん運び入れてくる。知らないお兄さん達と遊ぶのは楽しくて相手をしてもらってるうちに夜になり、皆帰ってしまって急に寂しくなった。

ここにいたらおじいちゃんもおばあちゃんもお父さんも遊べない。

お父さんはいつ来るの?明日?と、そんなことを聞いたように思う。

 


薄暗い風呂に幸子と2人で入ると、幸子はタバコに火をつけた。

私と風呂に入りながらタバコを吸うのは幸子の日課なのだが、今までと違う狭い浴室内はとても息苦しく、呼吸ができなくなり溺れたところをひっぱり起こされた。

そして突然幸子が

「お父さんとお母さんどっちが好き?」

と聞いてきたので

「どっちも好きー」

と答える。

 


「どっちもは選べない。今日からお父さんかお母さんのどっちかとしか暮らせない。2人ともはダメなの。」

 


3歳の私にはそれは死の宣告のような気がしたのを覚えてる。

 


「どっちも一緒じゃなきゃやだよぉ。。。お父さんもお母さんも一緒がいい。。。」

泣きながら訴えるも

「お母さんがいいよね?お母さんがいないとご飯食べられないもんね?」

と畳み掛けられ、たしかにご飯食べられないのは困る!と咄嗟に

「お母さんがいい。お母さんと一緒にいる。」

と答えた。

 


答えてしまった。

 


幼い私は幸子と暮らすことを選択したことにより、これが本当の死の宣告なるなんて思いもしなかったのだ。

 


金魚は水筒の中で死んでいた。

一番最初の理不尽な記憶

2歳の私は夜に幸子と2人、積み重なった布団の上で数を数える練習をしていた。

「いち、にぃ、さん、よん、ご、なな、いち???」

なかなか覚えられないでいると幸子は優しく

「いち、に、さん、し、ご、ろく、しち、はち、きゅう、じゅ!よ。」

と教えてくれた。

それが嬉しくて楽しくて私は何度も何度も繰り返したが、やはり頭で理解するのに口がついてこず何度も間違えてしまう。

「いち、にぃ、よん、あ!もーわっかんないよ?」と人差し指をくるくると回し、幸子が笑ってくれると思いおどけてみせた。

 

その瞬間、突然幸子にものすごい力で腕を掴まれ、玄関の外まで引き摺り出されというかほぼ投げ捨てられドアをガチャンっと閉められてしまった。

 

そこそこの高さがあったマンションの廊下に裸足にパジャマで放り出されるも、初めのうちはよく状況が飲み込めず、まだ呑気に柵から足を出してプラプラしたり、柵を横に伝って歩いたり遊んでいた。

しかしだんだんと足が痛くなる。真冬に吹きっさらしのコンクリートの廊下を裸足でうろついているのだから当たり前なのだが、なんせ数も数えられない年の私はそれに気付かない。

 

「おかあさん!おかあさん!あしいたいよ!おうちにいれて!」

 

玄関ドアを叩くも幸子の返事はない。

いよいよ怖くなり大泣きしていると、同じ階に住んでいる男の子2人兄弟がいる幸子より大分若くみえるお母さんが出てきてくれたのだが、足の痛みと恐怖と顎の震えでうまく話せなかった。

 

そのお母さんが私を抱き抱えてくれると、あんなに開かなかったうちの玄関ドアはすんなり開いていつもの笑顔の幸子がいた。

 

記憶はここで途絶えている。